表具の仕事を東京で習った父は、母の実家が在った熊谷市に住まい、5人兄弟の末っ子ながら家を継ぐため栃木県南部の小さな町に転居、稼業にするはずの表具の仕事は田舎ゆえ不成立、どうゆうわけか近くの郵便局で保険の外交員のお仕事!
日曜の休みを使って副業として「襖屋さん」をやっていました。
昔の家は建具が間仕切り(壁)を兼ねていたので、それを外してしまうと家中が見渡せるほど、朝預かった襖は夕方までには届けなければならず、当然父一人では無理、猫の手は当てにならず、子供でも襖の上端に手が届く様になったら「仕事を手伝わせる」と父は決めていて、兄は小学6年から私はなぜか5年生で手が届いて、手伝う羽目になってしまい、要領のいい兄は私が手伝う様になってから、日曜日はどこに行っていたのか不在になって、素直でおとなしい(?)弟が車もなかった頃、自転車やリアカーに道具などを載せて、砂利の田舎道を父の後を追いながら仕事に向かったのでしたが、昔はどこの家庭でも家の手伝いやアルバイトをしてでも、子供が家計を助けるのは当たり前で「新聞少年」の歌にもあるように、私は小学5年から「襖少年」だった記憶があり、これが生涯の原点の一つになっています。